第2章『北方謀略』 Bパート


「零課で採用するのか?」
 金谷の問いに対し、カニンガムは片眉を上げて反応した。
「秘書課の席が一つ空いているんだが…できれば彼女、そっちで採用したい。」
「エロオヤジ。」
「馬鹿野郎。そんなんじゃねぇよ。」
 苦笑。
「奴の…橘の娘を駒に使っちゃ駄目だろ。」
 金谷は目をしょぼつかせ、黒縁眼鏡を外す。
 ここ暫く全然寝ていないので、ちと視界がぼやける。
「おい、見くびるんじゃねぇよ。」
 表情も無く、カニンガムは言った。
「あいつの娘が大人しく言うこと聞くいい子な訳ねぇじゃろ。」
 そう言って、少し表情が緩む。
「奴だけじゃあない。桜庭も、『係長』も、国家保安部如きの駒にはならんよ。」


 一度は暖かくなってきた気候も再び寒波が到来し、冷え込む。
 春のうららの隅田川を口ずさむにはまだまだ早い。
 隅田川下流の江東区側川沿いに古びた四階建ての雑居ビルがある。錆びた看板には『永代商事』と書いてある。看板は今にも落ちそうに風が吹くたびに揺れていた。
 黒ずんだ壁のヒビは、建物の耐久年数経過を物語っている。
 橘は永代商事の前で絶句した。
「ここが…職場?」
 バスで晃に案内されてここまで来た。
 確かに、自分たちのようなグレーゾーンの存在が隠れ蓑に使うには持って来いだ。しかし、滑稽と言えば、あまりにも滑稽だった。
 どこかのスパイ映画や、地球防衛軍の秘密基地のような職場など、鼻から期待も予想もしていない。
「だから、この永代商事はウチのダミー会社ってわけ。ここはね、三年前に経営者が夜逃げしちゃって、それから休眠状態なんだ。」
「今頃、東京湾の底か富士の樹海なんじゃない?」
 ラーンの軽口に晃は肩をすくめる。
「怖い事言わないでよ。」
 晃が扉の鍵穴に鍵を差し込む。
「ありゃ?」
 晃は短く呟いた。
 彼の手元を覗き込む。
 鍵を右にひねろうが、左にひねろうが、木の扉は開く気配すら見せない。
「おかしいな。」
 押しても引いても、扉はびくともしなかった。
 と、小さな金属音。
「あ…。」
 鍵が折れたのだ。鍵穴に差し込んだまま、根本から折れた。
 ラーンが歩み寄る。
「どいてみ。」
 晃を押しのけ、扉の前に立つ。
 扉の表面を押して、強度の具合を確かめる。
 ざらざらとした手触り。
「ふむふむ。」
 そして、一歩下がる。
「あ、せーの。」
 ラーンが前に足を突き出した。鉄槌と呼ぶに相応しい蹴り一撃だった。
鉄槌は命中した部分の表皮を抉り、扉全体を軋ませた。
 ゆっくりと、建物の内側に倒れる。
「うわっ…。」
 突然壊されたオフィスの備品を前に、晃は感嘆する。
「開いたよ。」
 そう言って、ラーンは入り口をくぐった。
「なにも壊さなくたって。」
「壊れてたんだからいいじゃん。腐った扉は蹴破るの一番。」
「課長が帰ってくるまでに直さないと…。」
 晃が玄関扉を片付けている間に中の方へと入っていく。
 受付の小さな机がまず目に入った。
 右手の部屋に入ると、空っぽの棚が所々に据えられ、車四台が停められる程のスペースを確保してある。部屋の隅には前の経営者が使っていたのか、フォークリフトが埃を被って放置されていた。
 なるほど、確かにもとは商社だったようだ。
 晃の話では、一階が車庫、二階はオフィス、三階が倉庫と書類保管室で、四階は改装中のまま放置されているらしい。
 幽霊屋敷のような雰囲気だが、この静寂の空間の方が気分は落ち着く。
―――特殊処理班のオフィスに比べりゃあねぇ…
 異常者と精神破綻者が要員の大半を占めるSEK特殊処理班のオフィスは綺麗に筋はされていたが、とてもリラックスできる雰囲気ではなかった。
 その意味ではこのオフィスは地味ながらも、印象はいい。
 二階のオフィスの扉は素直に開いてくれた。中を見ると、中央に四つの事務机が向かい合わせに密接して並べられる。
「ここは普通なんだ。」
 晃は下で外れた扉を直している。放ってきてしまったが、別に気にはしない。
 オフィスに足を踏み入れる。
 途端に、緊張が足の先から電流となって体を走った。
誰かに見られている。
 これと同じ感じは何度も受けてきた。狙われる気分。露骨な殺意は無いが、それに近いものがある。
 部屋の電気は消えていて、外から差し込む日光が頼りだ。
 無意識に表情が引き締まる。
 腰に手を当て、辺りを見回した。
 後ろで何かが動いた。
 振り返ると、すぐ目の前に大鉈を振りかざした長身の男が立っていた。
 不愉快かつ、好戦的な空気が漂う。とても話し合える空気ではない。
 大鉈の刃は問答無用とばかりにラーンの頭上へと降り注いだ。
 ラーンはポケットからサバイバルナイフを抜き、男の大鉈を受け止める。
 男はそれから口を開いた。
「貴様、何者だ?」


 侵入者だ。桜庭が一緒らしいが上がってこない。それならそれでいい。
 犬は気分が高揚した。
 何のアポも無しに入ってくるのは敵である。そうでなくても、犬が敵と認識すれば、それは排除されるべき存在なのだ。
 二階のオフィス。
 犬はそこで待ち伏せる事にした。壁とロッカーの隙間へと全身を滑り込ませる。
 扉が開かれ、中に入ってくる者を注視する。
 人影はオフィスの中央辺りまで進んできた
 腰に手を当てた、案外小柄で華奢な姿だ。僅かに失望を覚える。
―――命知らずめ。これだからヤポンスキー(日本人)は。
 倒す事に些かの面倒さを感じる。
 所持していた大鉈を振りかぶる。
 その時、侵入者は振り返りこちらを認識した。犬は双眼の光芒に戦慄する。
 あどけなさの残る表情でこちらを見ている。
 珍しい。大変珍しい。
 些かも怖れていないのだ。犬の失望は瞬時に吹き飛んだ。
 これまで対峙してきた敵は皆、大なり小なり『怖れ』の感情を眼に宿していた。
 しかし、この侵入者にそれは無い。あるのは障害を排除しようとする意思だけ。
―――危険だな。
  もう、こうなったら戦うしかない。こういう輩は犬の経験上、常に害となる存在であった。
 衝動に任せよう。
 理性を起動させるのは後回しだ。
 戦いたい。
 否、戦うべきだ。
 犬は自らの得物を侵入者の頭に下ろした。
 侵入者はナイフを抜き、受け止めた。
―――なんだと?
 少し戸惑いを覚える。
 即座に犬は問うた。
「貴様、何者だ。」


「そうだ。バルトフが襲撃された。こっちに向かうように指示は出してあるが、襲撃される可能性がある。援軍は送ってくれるな。」
 新宿歌舞伎町の焼肉店。
 紺のスーツを着た李保峻は肉を焼きながら、携帯電話をかけている。
 肉をひっくり返すと、溶けた脂が鉄の網目から滴り落ちる。
「バルトフとの取引は今夜だが、ロシアルートはもう止めた方がいい。今後は赤蛇ルートで“道具”は仕入れた方がいいかもしれんな。」
 器に盛られた生キャベツをかじり、肉が焼けるまで待つ。
「赤蛇ルートなら、周がコネを持っている。奴とも話し合って決めてくれ。」
 電話を切ったところで、骨付きカルビが運ばれてきた。
 携帯電話は懐にしまう。
「ありがとう。」
 日本語で言い、店員からカルビの盛られた皿を受け取る。愛想のいい店員は微笑し、厨房へと戻っていく。
 カルビを箸で摘む。
 が、すぐに皿に戻し、李は携帯電話を再び取り出した。
「今夜の取引だがな、狙撃兵を何人か揃えておいてくれ。万一のためだ。」
 それだけ言うと、電話を切り、猛烈に焼肉を食いだした。


 座るマクラーレンに対して、カッツェルは書類がファイルを差し出した。
 港区赤坂の在日アメリカ大使館。階段の踊場で向き合っている。
 受け取ったマクラーレンは「さて、」と前置きし、
「どうするのかな?中佐、彼らはすでに動いているぞ?君の…ペンタゴン(国防総省)の狙いを教えてもらえれば、私もそれなりに日本の外務省に説明できるのだが?」
「私には権限がありませんので、できませんな。しかし、我々の行動概要はそこにあります。」
 手に持ったファイルを指摘する。
「わからんね。DIAだけでなく、CIAも動いている。」
 マクラーレンは苦笑を浮かべている。
 閑職に近い駐日大使の仕事を長年こなしてきた男は、本国から送られてきたこの情報将校の言葉をあまり信用できなかった。
「君達は『ゼロ・セクション』なるものが存在すると本気で思っているのか?」
「ありますとも。」
 カッツェルは断言する。
「そして、これこそが彼ら国家保安部真の戦力です。」


 気がつけば、時間は昼を回っていた。
 二階、三階は全てのガラスが割られ、壁には機関砲を掃射されたかのような大穴が開き、天井にブーツや拳の型がくっきりと残っている。
 鉄製のロッカーは鉄くずと化し、事務机は二つに圧し折られ、書類棚はその巨体を床に横たえていた。
 そして、戦いの部隊は永代商事の屋上に持ち越された。
 ラーンは片足をつき、低い姿勢から隙を伺う。
「それで、こうなった訳か。」
 いつの間に現れたのか、カニンガムは見世物を見物するように、ベテランとルーキーの戦いを眺めていた。
 屋上も手すりが引きちぎられたりして、無残な有様だ。
 床にはチェルネンコの大鉈が突き刺さり、ラーンの投擲用小型ナイフも刃が砕かれた無残な姿を大鉈の周りに散らばらしていた。
「えーっと、この人がセミオン=A=チェルネンコ。うちの係長だよ。」
 その間に一人が挟まれる形で双方に目を配る晃。
 何とか、面識の無い二人の紹介をする。
―――んなの関係ない。
 晃の紹介を右から左へ聞き流した。
 ラーンは白のブラウスに黒のロングスカート。
 対するチェルネンコは茶色の三つ揃いスーツにカーキ色のトレンチコートを羽織った姿。
 オフィスレディーVS中年サラリーマン、いいとこのお嬢さんVS往年の刑事・・・さまざまな表現ができそうだ。
「係長、彼女は…。」
「見れば分かる。クソ生意気な世間知らずの新人だろう。」
 チェルネンコは懐に手をいれる。
「さぁ、本番はこれからだ小娘。」
 ラーンは全身の毛が逆立つ感覚がわかった。
 多分、いや、絶対あの手には銃を握っている。
 対峙しているこの男に話し合いが通じるとは思えない。
 ブラウスの袖から新しいサバイバルナイフを出す。
「これがここの流儀?上司がかわいい部下に手を上げるわけ。サイテー。オヤジは嫌よねぇ、火薬臭〜い。下品〜。」
 とりあえず、ちょっと古い女子高生風に言ってみる。
「血生臭いチビが偉そうに言うな。」
 毒を吐いたら、毒が帰ってきた。


「あううう〜…。」
 晃が一人で場の空気に耐えられないのか、二人の間を右往左往している。
 お互いにけん制していると、
「はいはいはい、終わり終わり。」
 カニンガムの声が割り込んできた。手を叩いて、強引に幕を引いた感じだ。
「仕事だ。先に掃除しろよ。」
「獲物の数は?」
「10人以上。」
 カニンガムはそう言って、階段を降りていった。
 それを聞き、チェルネンコは懐から手を抜く。
 見下すような顔をして、冷然とラーンに言い放った。
「命拾いしたな小娘。猟犬は貴様への興味が失せた。しかし、これだけは言っておく。足は引っ張るな。いいな。」
 鼻持ちならない。言われて、瞬間的に血が上った。
 一発かまさないと気がすまない。
「止めて。」
 唐突に手を握られた。
 晃が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「べー。」
 もう、チェルネンコは階段を降り始めたところ。届かない。しょうがないので思いっきり舌を出してやった。
「はは、あんまり気にしない方がいいよ。係長はああいう人だから。」
 何事も無かったかのようににへらと笑う晃。しかし、やはり安堵したのか、表情がいつもより緩んでいた。
「…うるさい。」
 手を振り払い、足早に階段へ向かう。
 と、晃が手を広げて駆け寄ってきた。
「あぁ〜ん、恐かったよぉ〜♪」
 しかし、避けられ、晃は顔から地面に着地。
 かなり痛そうだった。



 零課のページへ戻る     最終パートへ続く